『正しいものに遇って(あって)
正しくない自分を
知らされている』 利井明弘
「正信偈」には、自分のものさしほど正しいものはないと思い込むことを憍慢(おごり・たかぶり)、その心で人や社会の出来事を判断していくことを邪見(よこしま・はからい)と示されています。
この憍慢と邪見でつくられた「ものさし」は、人と接する時や社会の出来事を見る時に活躍します。
人と接する時、相手が自分にとって都合が良い人か良くない人か、好きか嫌いか、付き合って得か損かをはかります。社会の出来事も同様に自分にとって好ましいかのか、そうでないかをはかります。
そのうえ、このものさしの目盛りは、その幅がコロコロ変わるのです。自分にとって都合の良い人の時は寛大な目盛りで、少々のことは許すことができます。反対に都合の良くない人の時は厳しい目盛りで、些細なことも許すことができず叱責してしまいます。本来「ものさし」の目盛りの幅はどのような時にでも一定でなければ、「ものさし」としての役割を果たすことができないのですが…。
先日、門徒様から夏を感じるお裾分けを頂きました。Y様から頂いた立派なトマト🍅と、A様から頂いたお庭のブルーベリー🫐です。なつをヨーグルトと一緒に美味しく頂きます🙏



